4/17/2018

ブレッチリー・パークにブルーバッジが集まって。


3月14日のブログにブレッチリー・パークのことを書きました。今回は、ブルーバッジ・ガイドのための説明会がありました。特にガイディングに関するインフォメーションもいただきましたが、2名のボランティア・ガイドによるツアーは素晴らしかったです。かなりご年配の男性でしたが、ガイドのひとりが「あなたのお話をメモにとっていいですか?」という質問に、「もちろん、私が言うことはすべてメモしていただいてけっこう。間違ったことを言ったら、私を裁判にかけたときの証拠にもなりますからね。でもジョークだけは専売特許だからコピーはしないように。」というジョークに全員、緊張感も和らいで。

ブレッチリーで働いた人たちに感謝の意をこめて暗号が破られてから70周年目の2011年にをエリザベス女王が除幕された記念碑。




何って書いてあ る?




数分考えました。「暗号の記念碑だから、そう簡単には読めないだろうなー。」とすぐにギブアップ。家に帰って調べたら・・・・・・

We Also Served でした。あら、簡単。言われてみれば簡単に読めました。

「我々もまた奉仕した。」という意味です。この意味を説明しましょう。ブレッチリー・パークで働いていたひとは極秘のもとに活動していたわけですから、誰にも自分たちの仕事のことは話してはいけない規則を守っていました。そして戦争が終わると、暗号解読に使われた機械は全て処理を命じられ、人々もSee you againではなく、Never see you againという気持ちでブレッチリー・パークを去って行ったのです。戦争後も秘密は守らなければいけなかったので、家族にも、友人にも誰にも話さなかったのです。

ウィンストン・チャーチル首相は、ブレッチリー・パークのスタッフを "the geese that laid the golden eggs and never cackled" (金の卵を産むカモ)に例えています。何故なら金の卵の殻は破られることが(crackと言って暗号を破ることも  crackと言います)ないからです。それを生んだのがブレッチリー・パークのスタッフということで、ドイツの暗号は破られましたが、ここの暗号は破られることはないことを示します。

さて、秘密を守り通したスタッフですが、1974年に「The Ultra Secret」 という本が出版されてから次第に極秘が解禁され始めました。そして1993年にブレッチリー・パークが一般に公開されたのです。

この日集まったブルーバッジのガイドは50人くらい。先着順でしたから、来ることができなかったガイドも多くいたようです。日本人ガイドは私を含め2名のみ。もうひとりはなんと交通費を50ポンドくらいかけてきていました。私はラッキーにも家から車で20分以内で行けました。そうでなかったら、きっと私も躊躇したことでしょう。「ロンドン観光のついでにちょっと。」は不可能なので 、よほど興味のある人でない限り、日本の人が行くことはあまりないでしょう。でも、外国の人にも本当に素晴らしい訪問場所と思います。









 





絶対にcrackできないとヒットラーが信じていたドイツの暗号送信器「エニグマ」






それをcrackし、ブレッチリー・パークで開発された「ボム」のレプリカ。ちゃんと動きます。










いまだに秘密を守っている元ブレッチリー・パークのスタッフもここを訪れて初めてここで働いていたことを話し出す人も多いとか。 考えてみれば、頭が抜群に良くて、しかもおしゃべりではない人はそう沢山いるわけではありません。特別なことをしているとつい、人に話したくなりますよね。そういう立派な人たちが第二次世界大戦を2年縮めたというのですから、もっともっと彼らを称えてもいいでしょう。(実際にスタッフの3分の2は女性だったようです。)

それを忘れないように「We Also Served」の記念碑の言葉はぴったりだと思いました。最初にブレッチリー・パークに行ったときは敗戦国の日本人として少し複雑な気持ちでした。でもブレッチリー・パークの歴史は勝った、負けたではなく「2度と繰り返さないように。」することが目的です。それがここで働いた人たちへの最高のプレゼントになるでしょう。